2013年 11月 12日
2013年11月14日 |
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by chugakujyuken
| 2013-11-12 23:07
| 悠遊学園PTA
2006年 09月 20日
「戦争を知らない子どもたち」 (3)
「人格」とは、ひと言で言えば、「他の何ものにも代替不可能な、かけがえのない私」と理解すればよい。たとえば、人間の社会はひとりの人間を評価するのに、何ができるか、どんな役割が果たせるかを基準とする。このことをなすためには、君が必要だと言われれば、うれしくもなる。役割原理と必要原理の中で、人は生きている。しかし、ここには落とし穴があって、もしその人がいなければどうなるか。その人以上に、その役割・機能・能力を発揮する人を探してくれば事足りる。いま、私がここで倒れて、死んだとしても、校長代理が立てられ、よりよく校長の仕事の出来る人を校長に据えれば済むことです。このように、役割・機能で人を評価すれば、代替可能な存在となる。しかし、人格は違う。かけがえのない私とは、何ものにも替えられない存在なのです。そして、その存在があるがままに受け入れられるようになること、それを愛という。 ここで思う。教育基本法が制定されて以来、日本の教育は、公立であれ私立であれ、十分にそのなすべきことをしてこなかったのでないかと。つまり、人格の完成に向けて、教育することができなかったということです。どこの学校案内を見ても、学校紹介の文章を読んでも、「社会に貢献する人材の育成」ということが謳われています。それを読みながらいつも思う。人間は社会の材料なのかと。「人材」という言葉が示す通り、人が材として用いられている。 残念ながら、広島学院を紹介する一文にも、そのような表現が見られます。「有為な人材の育成」。それを見つけるたびに、削除するようにはしていますが、当たり前のように、このような表現が使われます。君は君になる、それだけでいいと私は思うのですが。 さらに、次のことを思う。戦後60年、多くのカトリック学校が設立されました。この広島学院もその中のひとつです。教育基本法に則り、「人格の完成」を目指すという教育の使命を、この概念を知るカトリック学校こそが、果たしていかなければならないのに、それを怠ってきたのではないか。少なくとも、人格の概念を日本という地に根づかせることができなかったのは、カトリック学校としてのミッションの失敗だったのではないか。さらに、教員生活を21年もやってきて、私は、出会った生徒に、人格の概念を語ってきたか、彼らを何ものにも変えがたい存在として受け入れ、彼ら自身が人格そのものであるということを体験させてきたか。 教育基本法改正の是非を問いながらも、今一度、あの基本法が目指したものを振り返る必要がある、そんなことを思いました。 そのように考えてみると、「戦争を知らない」尊さと「人格の概念」の大切さが、私の中では、ひとつになるのです。 (おわり) 〔2006年6月28日 高31Pの授業要旨〕 #
by chugakujyuken
| 2006-09-20 11:40
| 私学人の玉手箱
2006年 09月 12日
「戦争を知らない子どもたち」 (2)
日本の若者を見ると、「戦争を知らないな」とすぐ分かる。君たちもそうだ。君たちの瞳はとても澄んでいる。それは戦争を知らない瞳だ。世界で、戦争を知らないのは日本人だけだと言っていい。アメリカもイギリスも、イタリアもオーストラリアも、中国も韓国も、みんな戦争を知っている。自分の周りにいる誰か、父か叔父さんか、兄弟か、近所のおじさんか、必ず誰かが戦争に行き、戦争を体験している。しかし、今や、君たちの周囲の人は、君たちを含めて、誰も戦争を知らない。そのことがどれほど尊いことか、どれほど大切なことか、日本人はそのことをもっと知らなければならない。 日本人は、日本国憲法の第9条によって守られてきた。その条項ゆえに、戦争を知らずにきた。この憲法のすばらしさをもっと広めなけねばならない。世界中の憲法が、この条項を取り入れるべきだと思う。戦争を知らないことがどれほど大切で尊いことか・・・。 「戦争を知らない」という表現がこれほど新鮮に心に響いたことは、私自身、なかったことでした。改めて、私は、「戦争を知らない」ことを誇りにしなければならないと思ったのでした。 憲法改正が論議されるようになって久しくなります。教育基本法を改正し、国民投票の方法を決める段取りをしようと、先日閉会した国会では目論みました。結局、次の国会へと先送りになってしまいましたが、私たちはよくよく考えなけねばなりません。本当に、憲法を変える必要があるのか、教育基本法が目指していることは何なのかを。 ここで、ひとつ、教育基本法についてふれておきたい。ある会合に出席した折、それに先立って、講演がありました。広島の教育力を考えるという趣旨のお話でした。その中で、教育基本法改正についてのお話があり、この基本法の成立過程での逸話が紹介されました。基本法制定に尽力したのは田中耕太郎という方です。この方は、カトリック信者でもあり、基本法の中にある、「教育は人格の完成を目指し」というのは、当時のカトリシズムにおいて唱えられた「人格主義」の影響を受けていた。しかし、「人格」という概念は、日本人には馴染まないのではないかと、制定委員のひとりであった務台理作氏は言い、「人間性」と言い換えたらどうかと提案したそうです。田中耕太郎氏は、いいや、人間性には良いものと悪いものとがある。悪いものも一緒に完成されてはならないと言って、拒否し、「人格」という概念にこだわったのだとか。 このエピソードを聴いて、私は思わず、はっとしました。私は、大学時代の卒論が「人格の概念」をテーマとしていました。「人格」という概念が自分の中ではっきりとしないがゆえに、定めたテーマだったのです。今では、自分なりに人格とは何かを答えることはできますが、確かに、日本人が人格の概念を理解するのはむずかしいかも知れません。 (つづく) #
by chugakujyuken
| 2006-09-12 17:02
| 私学人の玉手箱
2006年 09月 07日
「戦争を知らない子どもたち」 (1)
昔、高校生の頃、ギターが弾けるようになったらいいなと思い、練習し始めました。フォーク・ソングの人気が高まり始め、弾き語りなんぞできたらカッコいいかなと思って始めたのでした。 まず、コードを覚え、Fのコードがしっかり押さえられるようになれば、ジャガジャガと弾き鳴らし、何とか歌えるようになります。そのような段階にくると、必ず練習して、歌えるようになるのが、「戦争を知らない子どもたち」でした。 戦争が終わって 僕らは生まれた 戦争を知らずに 僕らは育った・・・ 一種の反戦歌なのですが、「戦争を知らない」ということが、どこか後ろめたくて、戦争を知らないばっかりに、わがまま、気ままな生活をしている。大人たちからは、お前たちは青二才だ、長い髪して、と批判され、訳の分からない歌をがなりたてると言われ、白い目で見られる。それは僕たちが戦争を知らないからなのだと、逆に居直る。そんな感じの歌です。 この歌の影響なのか、「戦争を知らない」ということが、「戦争をしっている」世代に対して、ひけ目を感じさせていると、私はいつも思っていました。子どもの頃、両親から被爆体験の話を聞いたり、修学旅行で沖縄戦の証言を聞いたりすれば、俺たちは幸せだ、戦争の時代のことを考えれば、今こんなことしてちゃいけない、と反省させられる。この反応も、「戦争を知らない」ばっかりに起こる心の葛藤なのです。 ところが、先日、広島学院で行われた講演を聴いて、初めて、「戦争を知らない」ということがどれほど価値あることなのかを認識させられました。 講演をしてくださったのは、アレン・ネルソン氏です。アメリカの元海兵隊員で、ベトナム戦争に従軍したことのある方でした。貧しさゆえに海兵隊に入り、「人を殺せ」という教育を徹底して受けたこと、ベトナム戦争で村を襲撃し、多くの村人の死を目の当たりにしたこと、ジャングルに逃げ込んだ住民を発見する方法や死体の後片付けのこと、戦争の「におい」とはどのようなものなのか、などなど。ご自分の体験を赤裸々に語ってくださいました。 なぜ、今、ベトナム体験を語る講演活動を通して、平和の大切さを訴えるようになったのか、その動機も話してくださいました。ある村を襲ったとき、反撃に出会い、とっさに近くの民家の壕に身を隠したとき、たまたまそこにひとりの女性がいた。暗がりのなかでよく分からなかったが身動きひとつしない。よくよく見ると、彼女はひとりで出産の途中だった。人を殺せと教えられてきたが、新たな命の誕生をどのように手助けしていいのかは教えてもらわなかった。手を差し伸べたとき、自分の手に赤ちゃんが出てきた。女性は赤ん坊を受け取り、へその緒を自分で切って、赤ん坊を抱きかかえて、ジャングルに逃げていった。 そんな衝撃的な話をしてくださいました。 そして、ネルソン氏の講演は続きます。 (つづく) #
by chugakujyuken
| 2006-09-07 11:53
| 私学人の玉手箱
2006年 07月 24日
〔カリタス女子中学高等学校のセンセーより〕
(「アクセス・レポート」5/25記載の 同校配布資料を読んでの夢想―Z) ●私、実は英語教師なの、数学の教師が 「話好き」じゃないので、私がピンチヒッター ●ウチの数学は今年から授業等での 検定教科書の使用を完全にやめました ●今までは教科書と副教材を併用してたけれど 副教材をメインにしてそれ一本で行く ●「体系数学」っていうの。だけどあれは そんなに良い教材なのかしら? ●大学受験通信テスト会のZ会が 作ったもので内容は旧課程の丸写し ●桐蔭大学のS教授の書きおろしオリジナル 「中高一貫の数学」の方がよくない? ●岩波新書でS教授は「無限に遊ぶ数学」 という本も出してるわ (教科書は桐蔭学園中高で使用) ●Z会は英語でも「Treasure」(宝物) という教科書を出している。 ●品川女子学院などが使っているらしいけど ウチは使いません。 ●ウチが使うのは「プログレス21」 という教材でこれ一本槍 ●この「プログレス」という英語教材は (やはり60年代に)カトリック(イエズス会)の フリン神父らが作った。 (神戸の六甲中高の生徒たちのために) ●フリン神父は今90歳前後だが、すごく元気 (島根県)津和野の修道院から(山口県の) 荻光塩女子学院に授業に出てる。 (山口線と山陰本線を乗り継ぐの、大変よ) ●『フリンの教科書』というと女子生徒は 『不倫の教科書』と間違えて敬遠する (そう言って笑ってらっしゃるらしいわ) ●この「フリンの教科書」が古くなったので 全国のカトリック校の英語教師が話し合った ●それで共同し手分けして新しく 「プログレス21」を作ったの ●以前の「プログレス」よりかなり易しくしたわ それでも今の生徒にはかなり難しい。 ●ウチの学校は「ブック1」「ブック2」を 中学校で3年間かけてやります。 ●高1で「ブック3」をやり、後は未定。 これだけで「ふつうの大学」ならOKね (今春は164人の卒業生で「東大ゼロ」「早慶 上智合格18人」なのに、かなり「強気」だなあ) #
by chugakujyuken
| 2006-07-24 22:22
| トクする教科学習術
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