2006年 09月 20日
第11回 広島学院中学校・高等学校校長 李 聖一先生 |
「戦争を知らない子どもたち」 (3)
「人格」とは、ひと言で言えば、「他の何ものにも代替不可能な、かけがえのない私」と理解すればよい。たとえば、人間の社会はひとりの人間を評価するのに、何ができるか、どんな役割が果たせるかを基準とする。このことをなすためには、君が必要だと言われれば、うれしくもなる。役割原理と必要原理の中で、人は生きている。しかし、ここには落とし穴があって、もしその人がいなければどうなるか。その人以上に、その役割・機能・能力を発揮する人を探してくれば事足りる。いま、私がここで倒れて、死んだとしても、校長代理が立てられ、よりよく校長の仕事の出来る人を校長に据えれば済むことです。このように、役割・機能で人を評価すれば、代替可能な存在となる。しかし、人格は違う。かけがえのない私とは、何ものにも替えられない存在なのです。そして、その存在があるがままに受け入れられるようになること、それを愛という。
ここで思う。教育基本法が制定されて以来、日本の教育は、公立であれ私立であれ、十分にそのなすべきことをしてこなかったのでないかと。つまり、人格の完成に向けて、教育することができなかったということです。どこの学校案内を見ても、学校紹介の文章を読んでも、「社会に貢献する人材の育成」ということが謳われています。それを読みながらいつも思う。人間は社会の材料なのかと。「人材」という言葉が示す通り、人が材として用いられている。 残念ながら、広島学院を紹介する一文にも、そのような表現が見られます。「有為な人材の育成」。それを見つけるたびに、削除するようにはしていますが、当たり前のように、このような表現が使われます。君は君になる、それだけでいいと私は思うのですが。
さらに、次のことを思う。戦後60年、多くのカトリック学校が設立されました。この広島学院もその中のひとつです。教育基本法に則り、「人格の完成」を目指すという教育の使命を、この概念を知るカトリック学校こそが、果たしていかなければならないのに、それを怠ってきたのではないか。少なくとも、人格の概念を日本という地に根づかせることができなかったのは、カトリック学校としてのミッションの失敗だったのではないか。さらに、教員生活を21年もやってきて、私は、出会った生徒に、人格の概念を語ってきたか、彼らを何ものにも変えがたい存在として受け入れ、彼ら自身が人格そのものであるということを体験させてきたか。
教育基本法改正の是非を問いながらも、今一度、あの基本法が目指したものを振り返る必要がある、そんなことを思いました。
そのように考えてみると、「戦争を知らない」尊さと「人格の概念」の大切さが、私の中では、ひとつになるのです。 (おわり)
〔2006年6月28日 高31Pの授業要旨〕
「人格」とは、ひと言で言えば、「他の何ものにも代替不可能な、かけがえのない私」と理解すればよい。たとえば、人間の社会はひとりの人間を評価するのに、何ができるか、どんな役割が果たせるかを基準とする。このことをなすためには、君が必要だと言われれば、うれしくもなる。役割原理と必要原理の中で、人は生きている。しかし、ここには落とし穴があって、もしその人がいなければどうなるか。その人以上に、その役割・機能・能力を発揮する人を探してくれば事足りる。いま、私がここで倒れて、死んだとしても、校長代理が立てられ、よりよく校長の仕事の出来る人を校長に据えれば済むことです。このように、役割・機能で人を評価すれば、代替可能な存在となる。しかし、人格は違う。かけがえのない私とは、何ものにも替えられない存在なのです。そして、その存在があるがままに受け入れられるようになること、それを愛という。
ここで思う。教育基本法が制定されて以来、日本の教育は、公立であれ私立であれ、十分にそのなすべきことをしてこなかったのでないかと。つまり、人格の完成に向けて、教育することができなかったということです。どこの学校案内を見ても、学校紹介の文章を読んでも、「社会に貢献する人材の育成」ということが謳われています。それを読みながらいつも思う。人間は社会の材料なのかと。「人材」という言葉が示す通り、人が材として用いられている。 残念ながら、広島学院を紹介する一文にも、そのような表現が見られます。「有為な人材の育成」。それを見つけるたびに、削除するようにはしていますが、当たり前のように、このような表現が使われます。君は君になる、それだけでいいと私は思うのですが。
さらに、次のことを思う。戦後60年、多くのカトリック学校が設立されました。この広島学院もその中のひとつです。教育基本法に則り、「人格の完成」を目指すという教育の使命を、この概念を知るカトリック学校こそが、果たしていかなければならないのに、それを怠ってきたのではないか。少なくとも、人格の概念を日本という地に根づかせることができなかったのは、カトリック学校としてのミッションの失敗だったのではないか。さらに、教員生活を21年もやってきて、私は、出会った生徒に、人格の概念を語ってきたか、彼らを何ものにも変えがたい存在として受け入れ、彼ら自身が人格そのものであるということを体験させてきたか。
教育基本法改正の是非を問いながらも、今一度、あの基本法が目指したものを振り返る必要がある、そんなことを思いました。
そのように考えてみると、「戦争を知らない」尊さと「人格の概念」の大切さが、私の中では、ひとつになるのです。 (おわり)
〔2006年6月28日 高31Pの授業要旨〕
by chugakujyuken
| 2006-09-20 11:40
| 私学人の玉手箱